Wikiで見る、松井石根大将と蒋介石

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中国赴任時代~孫文、蔣介石を支援

明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。

明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。

松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。

松井は日本に留学した蔣介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蔣が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。田中首相は①この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 ②共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 ③この①②に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。 最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるーということであった。

松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蔣介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蔣を援助して、蔣の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蔣の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった」

wikiより引用 

松井構想(蔣介石との連携)の破綻

 

昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。

同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蔣介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。こうして松井構想は破綻した(田中正明の言)。

一方、蔣介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蔣介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。

ウィキより引用

 

 

 

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