厄介な表現の一つが「市民」
二度も不起訴処分をされた
事件にもならない件で
人権が踏みにじられたと
人権派が大きく支援する女性と倉持麟太郎氏に不倫され離婚され
子供まで奪われた倉持元夫人
週刊誌に告発しようとすると
圧力をかけられていると主張する元夫人人権派と言われる皆さん!
倉持夫人も支援してあげて下さい? pic.twitter.com/w5N3LS4WPp— パンパカ工務店 (@kitanihonganba) 2018年4月8日
人権派、護憲派◯◯解放関係者の主張は、中世の宗教裁判を連想する。彼らの声の高さと強面ぶり、迷走する論理と矛盾構造、要求する悪魔の証明と暴力性は、まさに異端尋問だな。。
— katsukazan (@asanai106) 2018年4月8日
活字としての「市民」との遭遇
一人の台東区民が「市民」と遭遇したのは、1970年代の前半か。
少々早熟なふりをしていたkazanが、神保町の古本屋で、白い表紙に「都市に論理」と言う書名が印刷された3センチ位の厚さの本を手にした時だと思う。
店頭で開いたページに、「西洋には都市に広場があって。。」「市民は広場で。。」と言う記述があったことだけは今でも記憶に残り、世界史Bの教科書以外の書物で、「市民」の活字を認識したのは、あの時の古本屋の店頭が始めての経験だと思う。
後年になって知ったことは、その著者が「羽仁五郎」であることと、その本が、どうやら全共闘系活動家のバイブルのような存在だったことより、浅草の二番館か三番館で見た成人映画指定の映画「にっぽん昆虫記」の主演女優・左幸子とその亭主の羽に進という認識の方が強く反応していたことを記憶する。
21世紀の市民
上段程度の記憶と認識しかないが、この「市民」が21世紀になると、日本社会で特異に存在になり、モンスタ-的存在に進化したようだ。
パワー左翼は、ネット上では「パヨク」とよばれ、「人権派」「反差別派」「ナントカ解放団体」「〇〇反対」「被害者」を声高に主張する自称知識人が、どうやら押し並べて「市民」になるらしい。
不思議と「市民」には国民とか、県民とか、区民、村民といった表現は殆ど聞かれないことも大きな特徴のひとつだ。
ダーウィンは、環境適応力と生存力の視点から進化論を語っていたと記憶するが、地球は、調和の取れた環境で、伝統的な風土と言う精神文化があったはずだが、そこがいびつなモンスターが異常に繁殖する環境に変化したとすれば、この星の悲劇の結末に興味がいく。
そんな思いがして、引用リツイートした動機。
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