忘れた頃に標本箱から人前に出ては存在を知らせる

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標本箱から時折顔を出すのは、業界のビジネスモデルか

レモンちゃんから作家活動になり化学変化した

ラジオ放送空間では、レモンちゃんと言われた落合恵子、ジェットストリームの城達也は人気でした。学生時代は寮生活でしたので、部屋は二人相部屋でテレビは無いので、もっぱらラジが身近になる環境があったせいでしょう。

そのレモンちゃんの実母は、知り合いの華道の師匠と同門の師範同士の関係もあり、間接的に話題にもなり、今様で言うならフレンドリーな存在でした。

こうした人たちの結構な数の人が、70年以降、つまり昭和45,6年以降、平成の前半にかけて、表舞台から消え、やがてネットの浸透が進むと、かって想像してたいたイメージと乖離した形でネット空間に登場してくる現象に時折戸惑いを感じます。

ネタ切れの業界にとっては、win-winか

「言わぬが花」を例えにして、「逢わぬが花」も浮世の当を得た話でしょう。

初恋の相手の消息を知り、なんとなくトキめいて、コンタクトしても、年齢を重ねた二人にとって、それぞれの人生で異なる道を歩んだのですから、逢わないほうが傷も浅いはず。

見なけりゃ、若い時代のポジチブな印象がそのままの形で残ります。

が、ネット空間では、SNSを通じて、忘れていた人が突如して変身した姿で登場しては、当時の一方的に膨らませていた印象を容赦なく打ち砕きます。

そんな時、変身した主役は別の空間にワープして話題をかっさらい、業界はあわよくばそれに便乗するようなビジネスモデルなのかと必要以上に訝しむ時があります。

「逢わぬが花」のときもある

「逢わぬが花」は人生の坂を、これげ落ちるようになると、達観します。

標本箱のガラス越しに見るほうが、密かな喜び享受できたはずのものが、飛び出してくることで、そのギャップに幻滅してしまう。

ドンピシャではなく少々無理ダシですが、

 

イタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の「映画人として名をなしたトトが、故郷のシチリアに葬儀でもどりその合間に、エリーナに会おうとするが、彼女は簡単には逢わなかった」流れの裏読みを記事を打ち込みながら思い出しました。

 

あの音楽は素晴らしい、大好きなコレクションの一つです。

Nuovo Cinema Paradiso ( ニュー・シネマ・パラダイス )- Ennio Morricone
1989年 イタリア映画 「ニュー・シネマ・パラダイス」 Italian movie "Nuovo Cinema Paradiso" (1989, Italy) It is a reminiscent story that were spelled based on First-love of a man fas...

もう何人に裏切られたことでしょう。

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