はじめに:40年停滞の起点—1985年のプラザ合意
日本の経済停滞は「失われた30年」として語られることが多い。しかし、その本質的な起点を遡ると、1985年9月22日のプラザ合意にまで行き着く。

米国の貿易赤字を是正するため、円高が急激に進行した結果、日本企業の輸出競争力が失われ、製造業を中心に大打撃を受けた。さらに、円高対策として行われた金融緩和はバブルの形成を加速させ、これが崩壊した後に「失われた40年」の土台が築かれた。
日本政府は、バブル崩壊後の経済対策として財政出動と金融緩和を行うべきだった。しかし実際には、増税と緊縮財政を基調とした政策が続き、企業や家計への負担が増大。さらに、特別会計を通じて財務官僚の天下り先が確保され、官僚の「渡り」制度が容認され続けた。
こうした政治の不作為が長期停滞の要因となったのである。
停滞の始まり:バブル崩壊と政策の誤算
1990年代初頭、日本はバブル崩壊を迎えた。株価と不動産価格の急落により、企業倒産が増加し、雇用不安が広がった。政府はこの危機への対応を迫られたが、金融緩和は慎重に過ぎ、財政政策は緊縮を基本としていた。
これにより、景気回復のタイミングを逸し、結果としてデフレ不況が長期化した。
特筆すべきは、日本の財務省が一貫して「財政健全化」を名目に増税を推進し、景気回復を妨げたことである。加えて、特別会計を通じた財務官僚の天下り先確保と「渡り」による影響力の維持が、財政改革を遅らせた。これが日本の経済政策の柔軟性を奪い、「失われた40年」を形成する原因の一つとなった。
構造改革の遅れと財務官僚支配
2000年代以降、日本はデフレと低成長に苦しむ一方で、政府の政策は一貫して緊縮財政を基調としていた。公共投資の削減、社会保障費の抑制、消費税の引き上げなどが行われたが、結果として経済はさらに萎縮。財務官僚は特別会計を用い、天下りと「渡り」を繰り返すことで権力を維持し、政治はこれを黙認し続けた。
また、欧米が積極的な金融緩和を進める中、日本は慎重な対応を維持し続けた。これにより、国際競争力は低下し、産業の再編やデジタル化推進が遅れた。政治の不作為が重なり、停滞の構造はより強固なものとなったのである。
「失われた40年」からの脱却:政治の変革が鍵
現在、日本の最大の課題は、財務官僚による政策支配を脱し、景気回復と成長戦略を主導できる政治体制を築くことにある。特別会計の透明化、天下りの厳格な規制、積極的な財政・金融政策の推進が必要不可欠だ。さらに、国民が政治に対して積極的に関与し、政策の透明性を求める意識改革も求められる。
おわりに
「失われた40年」を終わらせるためには、増税と緊縮財政による経済停滞からの脱却が必要だ。そして、財務官僚の支配を排し、政治が主体的に成長戦略を描ける環境を整えることが重要となる。未来を見据えた大胆な政治改革こそが、日本の経済再生の鍵を握っている。


コメント