1978年/禁断の置き針・鄧小平の「将来の賢い日中の人が解決する尖閣の領土問題」を放置した福田赳夫

「たられば」的にテーマを我田引水するのは、結構楽しいものがある。

特に自分の備忘録とかメモに書きとめていた事項の再検証もできるし、今となれば、こうした見方、ああした認識等ができるから、ノーオブリゲーションの限りでは自由奔放な記述が可能になる。 2015年以来某SNS筆頭のfcebookで五月雨式の執拗なBAN制裁を受けた過去をもつだけに、フリーのプラットフォームでの発信は慎重になるものの、時には自由な空間でストレスの解消を図りたい気もちで「たられば」の空間に突入だ。

鄧小平夫妻が日本を訪問したの1978年で、45年ぶりに尖閣の領土問題を棚上げした、当時者の術策の放置した件のセリフを今朝・2023年9月4日の”あさ8”で、百田尚樹氏が披露した。

彼の訪日の様子は記憶に残る。。

それも、良いにつけ、悪しきにつけという形容を払拭できいまま、「今にして思えば。。観」全開モードのなるのだから、もろ手を挙げて、歓迎し、見境の無い友好を見せつけれて、それを冷ややかに見ることができなかった一人として慙愧の念を隠し切れない。

すべては、1971年、突然のキッシンジャーの訪中、それに続くニクソンの訪中を緒とする米中の接近であり、背景にあるのは米ソ冷戦構造の解消で第三軸として米ソ間に中国を咬ませるキッシンジャーの外交ストラテジーがあった。

一説には、泥沼化するベトナム戦争から米国っがが離脱する思惑を考える向きもあるようで、一見説得力のある見方でありながら、実際にベトナムサイゴンが陥落して、サイゴンまで追いつめれた米軍が、現地から脱出するかのような混乱と体でサイゴンを離脱したのが、フォード大東慮時代の1975年であることで、そこに至る過程に5年の時間を数えるなら、米国が介入したベトナム戦争からの離脱説は薄いような印象を記憶する。

日中国交回復に傾注、傾倒した田中角栄内閣が選択した手法を背景にある複数の興味を排除できない。

当時は長期政権を樹立した佐藤栄作政権の跡目を三角大福とい括りの三木武夫、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘の四氏が各人が派閥の長となり、しのぎを削っていて成立したのが田中内閣であった。

立志伝中の田中は、日本の外交は伝統的に米欧基軸のフレームになっている現実に独自の活路として、手つかず未踏の対中国外交を模索したとみることは容易だ。

日中友好関係樹立(1972年)は前年のキッシンジャー訪中があってそれ以来、外務省には皆無のルートを模索し、創価学会ー公明党にアプロ―チした。 

田中角栄氏の思惑は的中したと言える。 当時、創価学会は、中国での布教活動を模索し、学会会長は、各国のアカデミーから名誉顕彰受けることでは華々しい足跡をのこしている。

Wikiでは。。

国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を飾る事が多い[34][35]。

海外では、モスクワ大学グラスゴー大学ボローニャ大学フランス学士院ナイロビ大学等より「名誉博士号」「名誉教授称号」を授与されている。今では、池田が高齢のため学長や一行がかけつけ、特例として日本で現地の形式に則った、授賞式が行われるようになった。

そして、同ページの中国の部分では、

中国との関係

これまで10度訪中し、北京西安鄭州上海杭州広州などを訪れている。また、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民胡錦濤温家宝といった政府指導者をはじめとする中国各界の要人と会見するなど、親密な関係にある。

その過程で、中国首脳陣との会談として1968年9月8日 「日中国交正常化提言」を発表の記述が見られる。 これは日中両国政府間の日中友好関係樹立が1972年であることをとらえても、異色であると言えそうだ。

こうした背景から、ポスト佐藤栄作内閣の跡目として国内政治のフレームでは、大蔵、建設、郵政等に絶大が影響力行使する力は持ちあわせても、外務省の聖域の主流である欧米基軸外交では人脈その他のインフォーマルな要素で、立ち遅れ感を認識していたとしても無理はないはすだ。  当然ながら、既存の権威やフレームから指図を得ることの無い未開、未踏の分野を模索する選択肢の筆頭が中国であり、政権樹立1年前のキッシンジャー訪中が、思考の大きなトリガーなった。

かくて、霞が関、永田町、日本財界との接点が薄い非従来ルートととして、公明党ー創価学会を起用したとすれば、それは従来の日本外交とは異質の特筆的なアプロ―チが成就した結果だろう。

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