米軍・グアムでアイアンドームシステムを導入★対中国戦は予想から予定事項になった

台湾海峡黙示録

対中国戦は、リアルな政治現実課題に昇華

日本は現在新政権が誕生して、一気に脱中国あるいは反中国色を鮮明にし始めた時期にあって、総選挙モード全開になっているが、対中国をめぐる世界は揺籃期はすでに過ぎ、すでに動乱期・激動期になっていると見るべきでしょう。

地政学的太平洋を俯瞰すれば、伝統的な表現として「第一列島線」「第二列島線」「第三列島線」のキワードがあることは、近年かなり一般的な情報になっています。

米国から見たとき、グアムにアイアンドームを構築したということは、対中国戦を想起したとき、沖縄、日本本州内の三沢、横田、横須賀、岩国がある日本列島上を走る列島線のリスクオン、第二列島線にあるグアムのリスクオフを念頭に置くことを発信したようなものになります。

つまり、日本人としては想像したくないが、「グアムにアイアンドーム構築」のキーワードは、グアムに米軍基地の確保であり、それはグアム米軍基地の兵站確保を意味しており、直接的表現を選択するなら、「グアムの安全確保」を意味します。

それは、極論すれば、第一列島線は失っても、第二列島線は絶対確保という思想、地政学論理、哲学を具現化したもになります。

アイアンドーム

ちなみにアイアンドームはイスラエル国のミサイル防衛防御システムであり、大紀元メディアには以下の記載があった。

アイアンドームは、イスラエルの軍事防衛企業ラファエル社が開発し、米軍向けは米軍需大手レイセオン・テクノロジーズが共同製造する領空防衛システム。レーダーが対象物を察知するとミサイルが発射され迎撃する。大型トラックで運搬や移動が可能だ。 今年5月、アイアンドームは、パレスチナの原理主義組織ハマスがイスラエルに向けて発射したロケット弾を相次ぎ撃ち落とした。被害規模を抑えたとして、その防衛能力は脚光を浴びた。

大紀元・2021年10月15日

尖閣は日米安保の適用云々で言質を求め一喜一憂してた時代の終焉

日本への警鐘★どうする日本政府

総選挙モード全開の日本政治、霞が関、永田町がこの大紀元・エポックタイムスの報道を如何に受けとめ、反応するか?

もはや政権にとって、事態は、「二階おろしの成功」「二階派・親中派、擁韓派の排除」で喜んでいれる状況では無いと言えます。

正直、台湾海峡の鼻先にいて、日々、台湾のテレビ情報で一喜一憂して、時に突然スマホに入る空襲警戒警報メッセージで、テレビのスイッチをオンする生活が日常化している一人として、日本政府の危機感の薄さを杞憂します。

今そこにあるリスクが中国リスク

まさに、「尖閣は日米安保の適用云々で言質を求め一喜一憂してた時代の終焉 」なんですと、絶叫したい。

過日の見える総裁選挙戦で、なによりも、ネット情報に多くの力量、力点を置くネットユーザーが、高市早苗候補の明解で明瞭な安全保障問題観に雪崩を打って共感した背景にあるものが、上述の 「尖閣は日米安保の適用云々で言質を求め一喜一憂してた時代の終焉 」 であることも指摘したい。

自然災害発生多発列島であるが故に、国土強靭化から目を避け、安易に国防資源である自衛隊を安易な防災リソースとして存在させてきた問題も指摘、糾弾されるべき事項のはずです。

そして、中国リスクは政権、政局から中国色排除で解決した問題ではないことも指摘したい。 もはや、中国問題は、「文明の衝突」であり「価値観の激突」であり倫理観が問われる最重要課題になっていると言えます。

戦争は始まる。戦争である以上、2回連チャンの敗北は許されない

対中国戦争は回避でき無いと考えます。

ないよりも、台湾を武力侵攻を宣言し、実際に挑発の域を超えた軍事パフォーマンスしている中国は、1939年・昭和14年から始まる「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」とソックリにかさなります。

現実の看過、容認は、第二次世界大戦の引き金である「ドイツのポーランド侵攻」につながった不幸な歴史を「歴史は繰り返す」という気の利いたキーワードで定着させて良いはずがないことは明らかです。

そして、日本国にとっては、大東亜戦争に追い込まれた不幸、敗戦を経験した不幸を乗り超える歴史のターニングポイントに居ると断言できます。 つまり日本国が日本国らしく復活し再生される、最初で最後の好機の到来したと言えます。

勝ち戦で変わる日本

大東亜戦争の最大にミスは、ナチスのプロパガンダに乗った日本と、コミンテルンの手のひらで踊らされた日本があって、日露戦争で敗北したロシアのPayBack・リベンジ的要素も排除できないと考えるkazanです。

さらに多くの不幸がかさなりました。その最たるものが、枢軸国・三国同盟の構築です。

その結果、義理堅く、まるで武士道であるか如く、核の攻撃を受けるまで、戦争を継続した日本の不幸、悲劇が現在で日本の仕組み、構造の随所で足枷、隘路になっている現実があります。

自虐史観、国体観の希薄、価値観の多元化が、どれだけ国家的生産性を毀損し、発展し成長するべき「ベクトルを分断」してることかを指摘できます。 その 「ベクトルを分断」 の結果が、「失われた30年」、「失われた日本の30年」だろうと言ってもはばかるものではないと断言します。

つまり。。

平和と経済発展の両輪で失ったものがあるといいうことではないでしょうか?

kazanとて、文系に端くれであり、「平和」「経済発展」「利益追求」「文化向上」は自身の金科玉条です。

が、なにかを排除してきたものがあるように思えてなりません。

それはアイデンテティーの喪失というリスクを念頭から追いやっていた現実です。

多少なりとも英語を話せて、母国語圏外にいて国際人もどきになりすましても、アイデンテティーを無くすことはできないということを発信したいのです。

アイデンテティー無くして、「地球市民」というすり替えは、ヒョットしたら可能かもしれませんが、そこにどれだけの価値があるものでしょうか? それは軽薄極まりない、スタイルであり感性であり、空虚、空白感全開の自分自身だと想像できます。

つまり、周囲に「わたし。。誰ですか?」「ここはドコ?」という個体になる自分が見えるということです。 このことは、老いていく自分自身を見るとき、絶対に排除できない「恐怖」です。そしてその恐怖が感じられる間は、自身の アイデンテティーの確保が継続されている証になると思考できます。

アイデンテティー があってこそ、悩むし、怒るし、国体観を意識し、日本の文化風土、日本の精神風土に意識、思いを傾ける原動力でると確信できるという思考に到達できそうです。

終わりに

昇華

本稿ではからずも「昇華」といいうキーワードを使用してしまいました。

過去の複数回多用したきた表現であり、「言い回し」でもありますので、以下の記述を残したく。。

昇華とは「ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること」である。。、これはググった先にあった説明ながら、ふと、本来の化学・物理学の世界の現象を「 昇華 」という二文字をあてた日本の先人の学識、碩学に驚嘆します

昇華という用語が、いつ頃できたものかはググってはいませんが、おそらく、化学、物理学の概念、情報に日本の先人が遭遇したときだと想像し、その想像が外れた無いなら、江戸中期から明治の時代かもしれない。 だとすれば、今更ながら、日本の先人の知性、学識、碩学、教養に驚嘆すると供に、現在、安直に情報端末を使いつつ、情報ツールと環境をいたずらに駆使する自分があまりにもい貧弱に見えてきて、意気消沈します。

それほどに、150余年前の日本の先人、先輩の巨人ぶりに怪物的「物凄さ」を感じます。

怪物の原点

怪物的、物凄さの背景にあったもの、バックボーンにつていは、別に記述をするべき価値があると認識するとして、本ブログタイトルとは別次元の取り上げになるがメモとして残したくなるキーワードに「漢字素養」「漢学教養」そしてなにより、情報を学び、吸収するというポジティブなマインドを挙げられる。

しかもそれを「 ポジティブなマインド」などとい軽い、薄っぺらな表現が恥ずかしくなる「真剣」「貪欲」「必死」さがあったと、軽薄なkazanですら容易に想像できる位の状況に恐れ入ってしまいます。

ブログテーマから脱線ついでに、江戸文化、明治の時代のエネルギーのパワーに神がかり性すら感じてしまう自分がいることを自分へのメモとして残したい。

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