8月15日はやはり重いもの・あさ8の発信トークで感じる終戦の日

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今年の8月15日

今朝の”あさ8”のライブ視聴を終えて、いつもとは異なる心理状態におります。

“あさ8”のレギュラー発信者も、当然ながら、意識した話題とニュースを取り上げた観があって、さらに出演者のアドリブ発言が少なかったことも、「8月15日」を視聴者と共有しようとする意志と思いが反映されているように思えました。

キーワードとして樋口季一郎中将が発信トークの中で3度主題、切り口で浮上します。

キーワード・樋口季一郎中将

関東軍時代の樋口季一郎(画像)は少将

ヒグチルート

一件目はナチスドイツの迫害から逃れた数千人のユダヤ人がソ連国境から満州への入国を希望し、関東軍は同盟国の抗議を一蹴して、彼らの希望である上海経由での米国行きを支援したことは有名な史実。当初は一方に逃れてくるユダヤ人を満州開発に協力を得ようとする計画があったし、二十人に満たない人数のユダヤ人を上海に逃すことに成功。 このルートをユダヤ人は「ヒグチルート」と呼ぶようになり数千名のユダヤ人が上海経由で米国に渡ったとされる。

あさ8・23年8月15日

それぞれの出演者が、各様の切り口でキーワードに関するアウトラインをトーク・発信する。

陸軍第5方面軍司令官時代と以降

二件目は、終戦時、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)隷下の所部隊が終戦後の、2045年8月18日~25日の千島列東端での占守島戦(占守島の戦い)でソ連軍による北海道占領を阻止した史実の部分

三件目は、有本香氏が後年、記念館になっていた樋口季一郎宅を訪問した際のエピソード

一件目は有名な話で、多くのネットユーザーで共有されている史実で、当時の支援実行が関東軍参謀の樋口季一郎、上司である参謀長が東条英機で、彼がドイツの抗議を人道を理由に一蹴したことだろう。

占守島戦は、ソ連軍の上陸は、当時のベーリング海に面したある―シャン列島に基地を構えていた米軍の支援があった記憶がある。

三件目は、有本香氏が樋口季一郎邸を訪問した時、元北海道新聞の関係者と面談しその時トークが興味深いものがあった。

有本香氏の訪問時期は、勝手な想像だが、バブル期かそれ以降だろうと思われます。

元北海道新聞の関係者は、1960年代は、樋口季一郎中将の功績を北海道新聞が取り上げていたが、1980年になるとまったく取り上げなくなったことを有本香氏に話されたという。

興味深い有本香氏が紹介する道新・北海道新聞

道新の世代交代

今でこそ、北の左翼新聞で有名な北海道新聞だが、かって1980年以前は、さほどの左傾化は無かったことを意味します。

この背景には、社員の世代の交代があったと想像します。

1980年代には、戦中派世代に代わって、戦後卒業した世代が企業のほぼ全体を占めるようになった時代ではなかったか。

世代交代で深化する価値観の変貌

当然なら、デスク、キャップ、記者の世代交代があったのは当然です。

80年以前までの主力は1920年生まれで、この世代は1945年の終戦時が青年期です。 激動期を生き延びた世代です。

さらに1970年以降は全共闘運動で左傾化した学生が卒業して社会に出て十年の時代。 若い社員でも中間管理職に始まりを体験する時です。

つまり、左傾化した団塊世代の記者が社風を変えたということだろう。 さらに、彼らを鍛えたのが、60年の政治時代体験持つ先輩社員であったことも想像できる。

おわりに

親子3代、多年に渡り保守を支持してきましたが、自身も団塊の一人だ。 69年、70年の頃の同世代がもっと保守として政治的行動をすべきであったと反省させられ、忸怩立つ思いを感じることしきりだ。

余談ながら、その意味で、東京で、その同世代でありながら、同時代に同じ時空を共有した作家・宮崎正弘氏の存在をうらやましく思ったり、尊敬もする。

そうした過去経緯を再インプットできたことからも、久方ぶりに濃厚な視聴時間であったようだ。

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