fbのタイムラインで五木寛之が取り上げられていたので。。

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懐かしい作家の名であり、<いいね>し、コメントを入れはじめたら、また駄文でさらに悪い癖の長文になりそうになったので、急遽ブログに方向を変えた次第。

もっとも印象深い作品

確か朝鮮半島、当時ソ連兵が大挙していただろう、北朝鮮から脱出行同様で引き上げた経験その後の青年期まで自伝的エッセー。脱出行は新制就学年では小6か中1のはず。

「風に吹かれて」には、『帰国後の筑豊か八女の生活で、朝鮮では教師か校長の職にあった実直な父親は引き上げ後、郷里の小学か中学の教員になり、かつ時代の流れで、虚無的になった昼間の教師の父親と距離間を置いた生活や、その過程で、生きるためにある夜、闇物資をリヤカーか自転車で運ぶ手伝いをした時、荷が崩れ、暗い夜道で散乱した闇物資を父親と這いつくばって拾い集めた時、父親の距離が無くなった]とする下りがあった。

五木寛之の著書では、「風に吹かれて」のこの部分が今でも強烈に記憶に残る。

浅草時代は、ラジオ深夜便の「人生の歌語り」を視聴

五木寛之氏の著書は、初期に平凡パンチかプレーボーイに連載した、「青年は荒野をめざす」が最初の遭遇。

学生時代は寮生活で、気が合う二年後輩の部屋に、単行本の五木本である「恋歌」があり、借りて読んでからハマった唯一の作家。

以来、「戒厳令の夜」の時代までの記憶は残っている。

そして1990年代は、ラジオ深夜便の「人生の歌かたり」で、作家に若い時代の生き様と時代の詳細を知ることができた貴重な存在だ。

五木本から距離が出た時代

自分の中で最も時間が少なかった時代でもあり、仕事と付き合い、家庭人しての生活から、先に紹介したラジオが身近な存在になる環境になった。

さらに、読み続けた「青春の門」が望郷篇か再起編で休筆したことも理由のひとつ。

ハードカバーのケース本の青春の門」が並ぶ本棚は、結構見栄えがした記憶があるものの、面白いということ以上に、尾崎士郎の「人生劇場」と似たような構成に気がつていたことが理由だったと思う。

新たな接点

以後、雑誌か週刊誌で、五木寛之氏が龍谷大の学部生か聴講生になったことを知り、さらに自分と同じお経本「正信偈」を詠むことを知った。 同じ浄土真宗で、五木氏が西本願寺で自分は東になり、「正信偈」は恐らくほとんど同じで表紙の色と寺紋しょうが異なる程度。

我が家は東本願寺系の末寺の檀家で、祖父母以降は、皆、東本願寺に分骨をする決まりになっており、自分は父母と嫁の分骨を十余年前にした。

そんな縁と経緯が重なり、若干興味が薄れたが身近な存在で、久方ぶりに、facebookのスレでいくつかの記憶と思い出、記録が蘇った。

ノートがある

台湾にワープする時、書籍類は処分した関係で、情報源はほぼ100%がネット依存。

その関係で、ブログ投稿や、調べ物をワープした当時はノートを書いていた。

日本の戦後史に興味があり、60年安保前後から70年安保前後に興味をもっており、その時代の代表的な群像を通して見る時、生年別の年代整理をしていた部分がノートにあった。

年代区分

その年代区分の冒頭が、「1930~1935 A世代」

そこのトップに五木寛之の名があり、次に柴田翔、高橋和巳、田原総一朗、小田実、古川勇一、新井佐和子、大島渚が続く。

ちなみに「1936~」←おそらくB世代区分のはず

そこには、唐牛健太郎 1937、西部邁 1379 がいる。

A世代とB世代

つまり、A世代は、終戦時が小学校6か中1(新制換算)で、基本的に60年安保に関しては先行組で、むしろ60年以前の日本共産党が路線変更した「六全協」とその結果の産物である「反代々木」ー現代の過激派の原型世代に重なる。

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