天皇皇后両陛下の訪中と宮澤総理

台湾海峡黙示録

1992年の総理

宮澤喜一総理。サンフランシスコ講和条約調印訪米日本代表団の随員として参加た大蔵省官僚の経歴を持つ、同時代有数の英語使いの官僚とも評価されてた人物で、佐藤栄作政権後のポスト佐藤をめぐる三角大福と言われた時代の大平派・宏池会に所属し、ポスト三角大福後の中曽根政権時代に宏池会の継承者になり1991年に内閣総理大臣として政権を担った。

個人的な見解だが、宮澤政権については、保守本流的派閥を将いて政権についた割に、結果を見れば、日本国にとってさほどの重さを感じられない。

宮澤喜一総理

1991年11月に第78代総理になり、明けて1992年に韓国を訪問した。 宮澤訪韓をターゲットに朝日新聞は、いわゆる朝鮮人慰安婦で、旧軍の関与を絡めたスクープを報道した。

そのことで、訪韓中の宮澤総理は、情報不足、置かれている状況の不案内の中で、朝日新聞のスクープとリンクし、巧妙に仕組まれた韓国内反日勢力の非難、批判の直撃弾を受ける結果になり、ある意味では、あるいは結果的公式の場で8回とも、十数回とも言われている謝罪を強いいられることになり、宮澤訪韓謝罪外交とまでの非難を後年、日本の保守勢力からも受けることとなった。

そのスクープには仕掛けがあった。

スクープの仕掛け

中央大学文学部吉見義明教授が朝日新聞の黒子となり、当時目黒区・最寄り駅は恵比寿にあった防衛庁防衛研修所戦史室での資料閲覧から、慰安婦に関する資料をコピーして朝日新聞の辰濃哲郎記者に渡したことにはじまります。

これが宮澤訪韓前年の1991年12月のことだ。

これには、奇人的にチョットしたエピソードがあります。 それは、20数年前に、朝のラジオ放送のトーク番組で出演した吉見教授を知るゲストコメンテーターが、当時資料収集で目黒の防衛庁防衛研修所戦史室から帰途につく吉見義明教授と恵比寿駅に続く途中の坂道で偶然遭遇し、その時にに吉見義明教授が、喜々として「年明けに面白いことが起きる」とほのめかしたという体験を紹介しました。

あいにく視聴以来、長い年月で、ラジオでの紹介者の氏名を失念したが、吉見教授が不用意に知人であるゲストに漏らした「年明けに面白いことが起きる」ということに興味が残りいまでもその部分が記憶に残っている。

つまり、宮沢訪韓の失地と韓国での反日活動を扇動するために、吉見教授と朝日新聞が積極的な外堀を埋める作業を行い、1991年末に調査が完了したことを意味する。

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1990年の前後に日本初情報で海外の反日活動が活発化

こうして始まった1992年だが、平成2年の1990年は、土井たかこが率いる日本社会党がマドンナブームとかの社会現象をおこし、朝鮮半島にリンクした政治、社会の動きが活発化したといいう時代背景がある。

2017年にサハリン訴訟というキーワードが加わり。。

7年ほど前に、あるキーワードが、日本文化チャンネルに出演された 東京・東久留米市元市議の舘 雅子氏が紹介された中に、あるキーワードがああり、それまで整理もされずノート内に散乱していたキーワードを3年前に思い立ち、年代のよく軸に事象別並べた自分用のマトリックス的なあんちょこを作ったことがある。

ブログへのアップはじめてですが、記事草稿の際に引っ張り出したが、アフター70年安保、或いは、アフター安田講堂事件として、主観的にキーワードを眺めれば、各人は各様の捉え方が可能になるかもしれない。

この1990年の2年前、1988年にはベルリンの壁崩壊、

1989年は、中国では天安門事件、日本では、戦中戦後の朝鮮人戦争被害者訴訟の原型になったサハリン訴訟の一連の訴訟の最後の訴訟が取下げで終結、一方、韓国では11.16に挺対協設立があり、

1990年には、朝日・植村隆記者・韓国取材があり、さらに金丸・田辺議員の訪朝、前述のマドンナ旋風による日本社会党の躍進があり、岡崎トミ子(故人)もマドンナブームで初当選している。

1991年のソ連が崩壊、日本では海部政権→宮澤政権の政権交代

そして、1992年に件の朝日新聞による朝鮮人慰安婦の強制連行報道記事が宮澤総理の就任後初の外遊である訪韓をターゲットにしたかのように報道され、事前に連携していた韓国側反日勢力の反日圧力から、訪韓中の宮澤総理は、あらゆる場面、会場で謝罪を謝罪を強いられた経緯がある。

これが1992年1月のことだが、この年に、戸塚悦郎弁護士がNGO 国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国際連合人権委員会に提起し、サハリン訴訟の高木健一弁護士は東京地裁へフィリピン元「従軍慰安婦」裁判提訴

1992年2月、戸塚悦朗弁護士はNGO 国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国際連合人権委員会に提起するなど、リベラル系、反日共系で70年安保と大学紛争を経験しその後法曹界に転出した弁護士による戦時慰安婦問題が日本人弁護士により国際舞台で問題化するかのような活動が活発化した注目すべき年であり、この前後の数年に、現在に反日勢力の火種が集中的に蒔かれたというのが、個人的興味、感心と注目点である。

実現した天皇皇后両陛下の訪中

1989年天安門事件で中国は国際的な非難の中、国際規模の経済制裁を受け、経済、外交で孤立したが、1992年の天皇皇后両陛下による訪中が、それまでの経済制裁を解く端緒になり、ここから中国にモンスター化がはじまったとするのが定説になっております。

その意味で、日本は「制裁破り」であり、この制裁破りで、一次的に中国市場で有利な立場を得る結果になったが、その時期は同時に日本のバブル経済の崩壊が進行する時期にかさなります。

従来は、競業相手のいない経済制裁中の中国で独占的な優位性を期待する日本財界の思惑が、外務省チャイナスクールとつるみ、宮澤政権の前、国際外交でミスマッチを重ねた愛知県出身の海部俊樹総理在任中に訪中工作を行い、宮澤総理がそのレールに載せられたような構図が想像できる。

海部茂樹総理の外交に関して。。

海部茂樹総理に関して、個人的な当時の記憶では、メディア情報として、とにかく演説が上手く、際立っていたという評判が高いとするイメージがすべてである。あえて言うなら、国際紛争で、憲法の制約から自衛隊の派遣が叶わず、戦費に相当する資金供出に終止したものの、供出した資金額に見合う国際的評価が全く得られなかった不幸がつきまとった総理と言う印象が強い。

国内での演説上手の評価は、所詮、選挙での集票力と、国会内の答弁力という域から脱することができなかった。 ただ、地元の愛知での評判は、「秀吉以来の天下人」ということを聞いた記憶がある。

ただ以下の情報と公開情報からが、一方的な私見であるが、トヨタとのつながりが見え隠れし、その延長上に、現在のトヨタが中国マーケットに固守する下地、伏線に一枚、あるいは数枚リンクしてるような印象が残る。

海部茂樹総理は。。天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた ーーーーWikipediaより

宏池会

宮澤喜一総理は、池田勇人、前尾繁三郎といった吉田学校ともいわれる流れにある、いわば保守本流の派閥の領袖であったが、大平正芳総理以後、ハト派系保守色が強い派閥という評価が定着しているが、その起点が、宮澤貴一総理のような印象を持っている(個人的) 知る限り、池田、前尾時代の宏池会には、時代的、世代的に当然ながら戦中派の議員の存在感があり、その一部の戦中派のは、大陸(中国、満州)出身者や、満州国総務庁や国策会社である満鉄出身者である満州人脈の存在をとある場面で何度か見る経験をしたが、その世代は皆、宮澤喜一総理の一回り上の世代であった。

そうした事情が、宏池会ー宮澤派の時代から、如才のないハト派的保守本流のイメージが定着したのかも知れないが、宮沢熹一総理にして、骨太の野人的、或いは国士観片鱗があれば、安易な前政権の外交継承で天皇皇后両陛下による訪中は実現しなかったかも知れない。

昨今、Xi近平主席の国賓訪日の是非が問われているが、当初からkazanは二度目の「国際的中国包囲網破り」に直結する問題の「国賓来日」を許すべきではないと考える。

なぜならモンスター化した中国の存在が近未来に本物のモンスターに変身し、スター・ウォーズの銀河帝国・シスへの道を驀進させる端緒を提供するようなものだからだ。 同じ過ちは繰り返すべきではないことは、正常人の常識だ。

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